あの日
2018年9月、俺は試験に落ちた。
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9月某日、俺は大学院の事務室にいた。大学との面談があるために俺は久しぶりに事務室を訪れた。
この面談は、全ての院生に対して行われているようで、内容は日々の学習状況にはじまり、勉強に対する相談や、私生活上の悩みなど多岐にわたる。
俺に対しては、ねぎらいの言葉とか、あと、いわゆる「今後どうするか」ってところだろうか。
時間より少し前に大学院の事務室に入り、応接ルームに入ろうとすると、すぐに事務員が俺のこと見つけ、座ってお待ちくださいと指示をしてきたので、俺は座ってしばらく応接室の窓から見える景色をぼーっと見ていた。
しばらく景色を眺めていると、「おまたせ」と言いながら入ってくる人影がひとり。教授である。
「ふえき君、久しぶりだね。元気にしてた?」と教授が言いながら応接室の古いパイプ椅子に勢いよく座る。ギシッと音がなる。
「ええ、まあそれなりに元気ですよ」と無難な返事をする。
教授と久しぶりに形ばかりの挨拶を交わしていると、続いて事務員がそそくさと応接室に入ってくる。
「みんな揃ったし始めようか」と教授。
「ええ」
「試験は残念だったね、感触はどうだったんだい」と教授がコーヒーをずずずとすすりながら聞いてくる。
「いやあ、そもそも一日目の憲法からやらかしてますから、落ちる覚悟はしてましたよ」と俺は予め用意していた言葉をよどみなく言う。
「そうか…うん…そうか」と教授は何かを噛みしめるように繰り返す。
「まあ、単純に実力が足りなかったってことです。それだけですよこの世界は」
言うまでもないが、試験の合否は試験当日に答案用紙の上に書かれた内容が全てであり、人格であるとか、この日のためにどんなものを犠牲にしてきたとかは一切考慮されない。
採点官は「言葉足らずであるが、この受験生はきっとこういうことが言いたいんだな」と善解して加点や採点をしてくることは基本的にないといっていい。
どこまでも平等で綺麗な世界。俺は落ちた今でもこの絶対法則ともいえるルールが好きである。
「たしかに実力の世界だもんなあ…それでもふえき君が頑張ってたの知ってたからさ」となんともいえない顔でフォローしてくる。
「教授、教授はなんで弁護士になろうと思ったんですか?」
「私?私は大学卒業したあとに○○○(某国営放送)に就職したんだけど、なんか違うって思ってさ。大学も法学部だったし、目指してみようと思って」と教授はぽつりと言った。
「受験回数は?」
「・・・・1回で運良く合格できた」
教授が合格した旧司法試験は超難関試験で最終合格率は3%程度である。また、複数回受験があたりまえで、中には10回以上受験している人だっている。平均して2,3回受験して合格できれば超優秀といえるであろう。1発合格者がどのような扱いを受けるのかは多言を要しない。
「でしたよね」と俺は返す。俺は教授がどんな人なのか当然知っている。自分とは種類の違う人間であることも。
「この手の試験に合格する人は多かれ少なかれ“持っているヤツ”なんですよ、俺にはそれがなかった。それを知れただけで満足していますし、やりきった感はありますよ」と続ける。
「そっか…私はふえき君に諦めてほしくないって思ってるよ」
そこで俺達の話をじっと聞いていた事務員が「教授、予備試験の話を」と教授に耳打ちする。
「あ、ああ、そうだったね。ふえき君あのね、予備試験受けてみる気はないかな?」と教授が遠慮がちに言う。
ややこしい話になるが、予備試験とは司法試験の受験資格を得るために実施されている試験で、これに受かると再び司法試験が受験できる。当然、受験生は社会人や現役の大学生など多岐にわたる。つまり現状、
法科大学院→司法試験
予備試験合格→司法試験
という2つのルートが存在していることになる。
………静寂の時が流れる。静寂は時間にして数十秒であったが、体感的には数分、いや数十分にも及んだかに思えた。
「教授、俺ね、受験生でいるときはずーっと辛かったですよ。試験前になるとお腹が痛くなって地下鉄に長い時間乗ることさえできなかった。病院で薬をもらって騙し騙しやってきました。それでも気休めです。最後までやれたのは意地ですよほとんど」
「それにね、さっき“持っているヤツ”って言いましたよね。試験本番にね、昼休憩があるじゃないですか。みんな食べ物が喉を通らないから、おにぎり一個とか、軽食ですませるんですよね。でもね、その中にね、ものすごくデカい弁当を広げて食べてるヤツとか、おにぎりを何個もほおばっているヤツとかがいるんですよ。俺は緊張とプレッシャーでゼリー飲料すらえづきながら飲んでるのに、です」
「持っているヤツらってのがいるとしたらそういう人たちなんじゃないですかね。プレッシャーや、逆境を力にしてしまえる人たち。あるいはそういったものを感じない人たち」 僕は当時のことを思い出しながらぽつりぽつりと言う。
「俺にはそれがないことが分かりました。あとはまあ、もう苦しい思いをしなくて済むのもありがたいことです」
「だからもう、法律の勉強とか、試験を受ける気はありません」とはっきりとした口調で言った。
正直、もう疲れたという気持ちが強い。自分の人生は自分だけのものであり、他の誰かが責任をとってくれることは断じて無い。
「そうか。変なこと言って済まなかったね」と教授が申し訳無さそうな顔で言う。最初に口につけたコーヒーはもう冷めきっているようだった。結構な時間が経過していた。
「いえ、教授も仕事でしょうし、ひとりでもたくさん合格させたいですもんね」と一応の理解を示す。
「俺はどちらかというと、俺を俺を応援してくれた両親、彼女、友人、先輩弁護士や検事、裁判官の方たちを裏切ることになってしまったことがただただ情けないし、悲しいです」
「俺がこれからどうなるかは分かりませんが、自分にできることを考えて行動したいと思ってますよ」と具体的なのか抽象的なのか分からないようなことを言う。
「そうか、ふえき君はもう進むべき道が見えてるんだね。今まで本当にお疲れ様でした。がんばった、本当にがんばった」と教授が労いの言葉をかけてくる。
「ええ、まあできれば合格してから聞きたかったですけどね」と僕はこの部屋に来て初めて笑いながら言う。教授も笑う。俺に合わせてくれたのだろう。
その後は、うだうだと関係ない世間話や、事務手続きの話をした。
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「そろそろ時間ですので」と事務員が時計を見ながら事務的に言う。
「おお、もうそんな時間?」と教授。
「では、行きますか」と俺が椅子から腰を上げる。
事務室の入り口でまた学校に顔を出すこと、連絡をとりあうこと等を約束して俺は大学を後にした。
大学の外に出ると、抜けるような青空が広がっていた。太陽も真上にある時間帯だ。
また、北海道はすでに秋。ひんやりとした冷たい風が全身を撫でる。
「さむー」と思わず独りごちる。
俺は眩しそうに太陽を見ながら、薄いアウターのジッパーを閉める。
遠くから、野球部かサッカー部の掛け声が聞こえる。
当たり前だが、天気も人々も俺の人生とは関係なしだ。人生も日々も進んでいく。
だから、今自分にできることを考えながら、前に進むほかないのだ。
「今絶望に思うことも、時が経てば笑い話になる」、俺が今見ている朝ドラでヒロインが言っていた。そうなることを祈って。
「ふぅ…ジュン○堂でオタク漫画かオタク小説でも買って帰るか…」
俺は再び独りごとを言いながら駅に向かった。
完